ガラパゴスの蛙

ネットに漂うあれこれ

新京報が李子柒をテストに出題した教師を批判するコラムを掲載する(2020/07/03)

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李子柒が地方の小学校のテストに出題されたことがネットの話題になっているようです。

李子柒が大手メディアで好意的に評価されたり、行政政策に絡み始めているニュースが増える一方で、彼女の動画が子どもたちに与える影響を心配する声も出てきています。(それを言うならもっと心配するべきことがあるだろうというツッコミたくなりますが…)

北京の新聞「新京報」ではこの出来事を受けて、李子柒を出題した教師に疑問を呈するコラムが掲載されていましす。

前提として新京報のコラムは常に何かに怒っていることは覚えておく必要があります。時事芸人のプチ鹿島さん的な言い方をすれば「新京報師匠」のような存在です。少し強い言葉を使うのはこの新聞の”芸風”です。

さらにコラムの執筆者 葉克飛さんは、李子柒自身と彼女をテストに出題した教師に批判的な論調を展開していますが、本当に言いたいことは最後の段落の一文。現在の中国教育現場で見られる画一的な教育方針への批判のようです。

その事も含めて李子柒が引き起こす社会現象としてお読みいただければと思います。

素人訳なので自己責任でご覧ください。

www.bjnews.com.cn

李子柒を国語のテストに出題、子どもの”知らずにいる権利”を無視(2020/07/03)

近日、寧波市海曙区の保護者の間で6年生の国語の期末テストが騒ぎになっている。ある保護者がネットに掲載したものによると、作文問題のテーマの1つにネットインフルエンサー李子柒の物語が載せられている。主な内容は中国伝統の田園文化の表現についてだが、最後に李子柒のフォロワー数が紹介されている。保護者はこのテーマが浅はかであるだけでなく、子どもに偏った価値観を与えるとしている。


この件に関するメディアの調査によると、確かに李子柒はテストに登場しているが、作文問題ではなく読解問題だったことわかっている。子どもたちに李子柒を含む3人の中から”自分にとって話題の人”を1人選び、その理由を書かせるものだった。


出題者はこのテストにより生徒の早く読む能力と情報を把握する力を測るとともに、”理想のために恐れることなく困難を克服し夢を叶えた人物は子どもたちの励みとなる”と考えたようだ。


教師の言う建前は見たところ正しいように思える。しかし建前で全てを解決出来るわけではない。ネットインフルエンサーはネット経済の一部分であり、現代社会において避けて通れない話題である。私は”テーマが浅い”とする主張には賛同しない。しかし李子柒を国語の試験で扱うべきか、どのように扱うべきかについては検討の余地がある。


まず検討するべきなのは李子柒の動画である。私は彼女の動画が多くの人にとって田園や牧歌的生活への憧れを抱かせることは否定しない。しかし美化しすぎるあまり、彼女の田園生活の記録はリアリティを失っている。過度の美化が人気を得るために必要であったとしても、李子柒が他のネットインフルエンサーとは異なり、控えめな態度を保ちゆっくりしたリズムで制作しているとしても、社会経験が少しでもある人ならば、あれが本来の農村生活ではないことを知っている。判断力が限られている子どもは、このようなフィクションにより誤った方向へ導かれてしまう可能性がある。


次に検討するべきは出題形式である。問題用紙には李子柒のフォロワー数に関する写真がある。問題そのものから言えば全く余計である。ある保護者は出題した教師が(彼女の)ファンなのではないか、そのような行動は嫌っているとしても、それと全く無関係とは言えないと疑っている。フォロワー数を個人の功績にするような内容は小学生のテストに登場するべきではない。


受け入れがたいのは、このテーマが子どもの”知らずにいる権利”を無視していることだ。


ニュースにはこのような点が含まれていた。テストに疑問を投げかけている保護者は自身が李子柒を知らず、噂で聞いたことがあるだけだった。あるネットユーザーは”普段携帯を使っていない子どもはどうなる”と述べている。しかし出題した教師はこれを読解問題とし、簡単な紹介を含めることで、(李子柒)を知らない生徒も問題を解けるようにしている。


しかし李子柒はネット動画で知られるインフルエンサーであり、それについて全く知らなければ、テストの文言(それとフォロワー数への言及)だけで彼女の人生とその価値を本当に理解することは難しい。この点からするとテストは不公平である。出題した教師と地元の教師たちの態度は、生徒が知るべき社会で話題のトピックの中に李子柒を加えている。生徒はこれだけ人気の李子柒を知るべきだ。なぜ知らないのか?という教師の潜在意識が見える。


では子どもの”知らずにいる権利”はどうだろうか?1人の小学生に大人のネットインフルエンサーを知るべき義務はない。教師が”生徒が社会で話題のトピックを知るべき”という建前を持ち出すのはさらに道理に反する。生徒が社会で話題のトピックに関心を持っていて、普段からニュースに注目していたとしても、李子柒に興味を持たない自由はある。


職責にかなう教師ならば、子どもに”情報爆発時代に早く情報を処理する能力”を求めるよりも、”情報爆発時代に情報を拒否する能力”を育むべきではないか。


人類がネット時代に入ってから”情報の海”がメディア業界の主力となっている。ある人は”なんでも知っている自分”に満足し、ある人は”知りたくない自分”でいようとする。後者の権利はネット時代において弱い立場にある。知りたいかどうかに関わらず、情報は様々な方法で目の前に現れる。更に言うなら、ゴミのような情報がもたらす悪い結果は、高度な情報がもたらす恩恵を遥かに超えている。


知ることが必須な情報など存在しない。李子柒も例外ではない。子どもが李子柒を知らないことよりも、教師が李子柒を知るべき社会のトピックに加えていることのほうが恐ろしい。同じような出来事が学校現場の中で珍しくないことが更に心配だ。いわゆる”必読書籍”により、生徒間の違いや読書の好みが抹殺されている。”みんなが李子柒を知るべきだ”と本質的に違いはない。

<記事の終わり>